#21歴史をつなぐ船
海上で保存される船舶として初の重要文化財「氷川丸」は、日本経済成長の一端を担い、人命を救うなど幾つもの役割を担ってきました。その深すぎる歴史と魅力に迫ります。
88歳、横浜の海のシンボル「氷川丸」が経済発展と人命救助の役割を担った歴史に迫る
横浜にはいくつも名所がありますが、その中でも港町のシンボルに挙げられるのが「氷川丸」です。係留地である山下公園とは、同じ昭和5年(1930年)の生まれで、今年で88歳になります。
シアトル航路用の貨客船として誕生した「氷川丸」は、竣工当時としては最新鋭の大型ディーゼル機関を搭載、またアール・デコ様式の美しいデザインが施されて注目を浴びました。戦時中には病院船、戦後直後には復員船・引き揚げ船として活躍、時代に合わせて役割を変えながら日本を支えてきたのです。
その価値が評価され、2016年には海上で保存されている船舶として初の重要文化財に指定されました。
今回は、この「氷川丸」を後世に伝えようと守り続ける28代目船長、金谷範夫(のりお)さんに歴史、魅力、展望などについてお伺いしました。第2回目では、船内の紹介や一般の方が入れないエリアもご紹介します。
▲船長・金谷範夫さん(右)
飛行機がない時代、人々の夢を運んだ大型船
「氷川丸」の運航開始1年前、1929年は世界大恐慌の始まった年です。それにも関わらず、海運・船舶業界はパワフルで、建造や運航について激しい競争を繰り広げていました。
日本郵船は、これらに対抗すべく、最新技術やインテリアを取り入れた大型船を次々と建造。世界の主要航路の運航をスタートさせていきました。その中でシアトル航路に投入されたのが「氷川丸」です。デンマーク製の当時最新鋭大型ディーゼルエンジンを搭載したり、フランス人工芸家のマルク・シモン氏によるアール・デコ様式を導入したり、冬の北太平洋を安全に航海できるように船底を二重にするなど当時の「最先端」が集結していました。
そんな「氷川丸」を一目見ようと、初航海の出発時に開いたレセプションは多くの人で賑わいました。特にシアトル、バンクーバーでは船内で身動きが取れないほどでした。
「最先端」が集結している大型船って、現代で考えてもお金がかかりそうですが、運賃は幾らぐらいしたのでしょうか。
横浜からシアトルまでの片道料金は250ドル、日本円で500円でした。家一軒建てるのに1,000円ぐらいの時代です。往復するだけで家一軒建つということですね。
普通の人では到底、乗船できないのでは…。乗ることができたのは、どんな方ですか。
映画俳優のチャーリー・チャップリン氏が有名です。彼が日本橋で食べた天ぷらが凄く気に入ったという情報を得て、コックをわざわざその料理店で修行させて乗船してもらったんです。
その他には、アメリカ公演帰りの宝塚少女歌劇団や、選ばれし官費留学(国が費用を負担する留学)の生徒などでした。一般の大人はもちろんのこと、学生に払える額ではありませんよね。
ただ、そのころは飛行機がない時代です。海外に渡る唯一の手段が船だったので、「異国に渡れる」だけで凄いことだったんですよ。
そんな豪華貨客船では食事は一流シェフの手による美味しいメニューが出され、船上ではテニスやゲーム大会が行われるなど華やかな生活が繰り広げられていたそうです。
病院船、復員船、引き揚げ船として人々を助ける
運航はしばらく順調に進み、「氷川丸」は146回太平洋を横断しました。しかし時は第二次世界大戦の時代に突入。1941年、日米関係の悪化により、シアトル航路が閉鎖されてしまいます。
戦争は決してあるべきものではありませんが、「氷川丸」が「重要文化財」として評価された理由の1つはこの時代の功績にあるんですよ。
シアトル航路が閉鎖されても、「氷川丸」は活躍したんですね。具体的にはどんな役割を果たしたのでしょうか。
まずは日米の関係悪化により、海外にいる日本人を帰国させるため「引き揚げ船」として働きました。その後すぐに本格的な戦争に突入してしまったので、そこからは「海軍特設病院船」となります。傷を負った兵隊さんたちを運び続けたのです。
日本に運んだ負傷兵の数は、3万人を超えると推算されていますから、多くの命を救ったことに間違いありません。
本来なら「病院船」は攻撃してはいけないのですが、水中に仕掛けられた「機雷」という爆弾で3回も被害を受けています。それでも、他の大型船がどんどん沈んでいく中、「氷川丸」は生き残りました。この船が“強運の船”と言われる理由はそこにあります。
戦後直後は、海外に取り残された日本人を輸送する復員輸送や一般邦人の引き揚げ輸送に従事しました。
そして、戦後2年間は北海道から食料品や石炭を運びました。まさに、戦中・戦後、多くの人命を救い、人々の糧となったのです。
その後「氷川丸」は貨客船として復帰するために大改装が行われ、1953年には12年ぶりにシアトル航路に復帰を果たしました。アメリカで学問に励むために乗船した中には、ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんや元国連事務次長の明石康さんなどがいらっしゃったそうです。
海洋知識を伝え、人々の思い出を生む観光船へ
時代により、多くの役割を果たし続けた「氷川丸」ですが、船には寿命があります。 1960年、「氷川丸」は船齢30年という老朽化に加えて飛行機の普及などにより引退、多くの人が別れを惜しみました。
引退後、翌1961年から、「氷川丸」は横浜港のシンボルとして山下公園に係留の上、ユースホステルとして開業、その後観光船として活用されることになります。
海洋知識を伝える役割としては修学旅行生などを延べ51万人、船上結婚式では2,000組近いカップルの思い出を作りました。
日本の歴史とともに、様々な役割を担ってきたんですね。88歳という年齢にも重みを感じます。今はどんな形で活躍しているんですか?
2006年に一旦閉館し大規模な改修工事が行われ、戦前の写真や資料を基に船内を竣工当時の姿に近い形に復元し、2008年に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンしました。
2016年には社会・経済史上で担ってきた役割、造船・工芸技術としての価値が認められ、重要文化財に指定されました。現在は、歴史ある船を皆さまにご覧いただけるよう、一般公開しています。また、年明けには汽笛を鳴らしたり、コンサートほか多くのイベントも開催しています。日本の経済を支え、歴史とともに歩んできた船を直に見て感じてほしいですね。
この先、「氷川丸」としての展望はありますか。
船としてはもう「長老」の年齢ですが、あと12年で100歳となります。重要文化財の中でも海上で保存されている初の文化財ですから、無事に100歳を迎えて欲しいですし、その後も船舶の素晴らしさ、背負ってきた日本の歴史を伝えていきたいです。
また、横浜に住んでいる人には、もっと頻繁に来て欲しいです。「氷川丸」は横浜の、もう少し広く言うと神奈川県の“宝”です。住んでいる人が、その宝の価値に触れて、外に情報発信していくようになったら嬉しいですね。
2006年に一旦閉館してしまった時に、横浜に住んでいる皆さんが「いなくなるのは寂しい」「なくさないで欲しい」と言っていたんです。でも、多くの方が、「いつでも行ける」という理由で一度も来た事がなかった。それでは遅いんです。
近くに住んでいて横浜を知っている人こそ、まず「氷川丸」に来てください。皆さんが年1度来てくれるようになったら私たちもできることが多くなります。ここでなら、海の歴史とロマンを感じられること、間違いなしです。
まさに日本の歴史とともに歩み、経済社会や人命を支えてきた「氷川丸」は、横浜に来たならぜひ足を運んでほしいスポットです。
この「氷川丸」は、ハマトク限定特典があります。一般、シニアの方がご利用いただくと入館料が50円引きに! ぜひこの機会に、横浜港のシンボルを訪れてみてください。
また、そんな日本の海運の歴史をもっともっと深く知りたい!という方には、「日本郵船歴史博物館」もおすすめです。こちらもハマトク利用で入館料が100円引きに!
日本郵船歴史博物館は、氷川丸からは徒歩15分。“港町ヨコハマ”らしい町並みを歩けるうってつけのコースにもなっています。
ぜひ、週末は「日本郵船氷川丸」と「日本郵船歴史博物館」で、港町のルーツを感じてみてはいかがでしょうか?
※掲載内容は2018年11月時点での情報です。