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#6
東海道の住環道を切り開いた理由とは 小田原エリア
真鶴・湯河原

明治22年、東海道本線が開業しましたが、神奈川県から静岡県への鉄道敷設は一筋縄ではいかなかったようです。

車窓から見える絶景は 先人たちの軌跡

明治時代、東海道本線が開業したころは、早川から熱海までの地形が険しかったこともあり、現在の御殿場線のルートで運行していました。しかし、このルートは急勾配であったため、補助機関車を要することもあり、輸送力・スピードともにボトルネックとなっていたことから、大正時代には現在の熱海経由のルートに変更することが決まっていました。ところが、熱海駅―沼津駅間の丹那トンネル建設が難工事となっていたため、開通まで国府津駅―熱海駅間は「熱海線」として運行していました。

現在でも、東海道線に乗り、早川駅を出て、西湘バイパスの終点でもある石橋インターを過ぎたあたりから、このルートの険しさを目の当たりにすると同時に、熱海方面に向かって左手に相模灘が広がり、東海道本線の絶景ポイントの一つといえるでしょう。
また、ホームから相模灘を一望することができる根府川駅は「関東の駅百選」の一つとなっています。

険しい地形が生み出した 知る人ぞ知る名産品

熱海線が開通する前の小田原から先、熱海までの間は交通が不便な状態となっており、沿線の住民からは鉄道の敷設を望む声が上がっていたものの、資金は思うように集まりませんでした。
そんな不便なこの地形ですが、真鶴には日本でもここでしか採ることのできない有名な石があります。「本小松石」です。

もともと真鶴半島は、箱根火山のカルデラ形成過程で、溶岩流が海に押し出されたことによって生まれました。海に流れ出たことで急速に固まった溶岩、これが本小松石です。硬く、耐久性・耐火性に優れた石質、研磨することで変化する色、さらに気候や温度によって石の表情が変わり、年月を経ることによって風合いが増すというところから、江戸幕府に重用され、江戸城の石垣の建造や徳川家代々の墓石、皇居や日比谷公園にも使用されるなど、現在でも墓石や庭園に使用される人気の高級石材の一つです。

数々の創作を生み出した 東京の奥座敷

険しい地形、集まらない資金・・・そんな中でも、実業家の雨宮敬次郎の協力を経て、明治28年から随時、人車軌道という形で営業を開始しました。その後、人車軌道は汽車で車両をけん引する軽便鉄道に切り替え、熱海線の開通までの間、人々の足となり活躍していました。

この軽便鉄道の工事の様子は、芥川龍之介の著書「トロッコ」にて、湯河原・真鶴の景色の描写と共に記されています。

 “ートロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑のにおひを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。”
 “ー今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。”
 “ー車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。”

これらの下りからも、険しい地形を切り拓いて造られた様子が伺えます。

ところで、芥川龍之介は療養のためしばしば湯河原に滞在しており、「トロッコ」は、滞在中に知り合った力石平蔵という人物の昔話を描写したものですが、湯河原は谷崎潤一郎、夏目漱石、与謝野晶子、島崎藤村、国木田独歩などの文筆家や歌人たちにも愛され、彼らの作品の舞台にも登場しています。
「万葉集」にも詠われた土地、湯河原は、こんこんと湧き出る弱アルカリ性の柔らかい泉質や街全体が持つ静かな佇まいが、古代、近代、そして今なお訪れる人々を惹きつけ、心身を癒し続けているのかもしれません。

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