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#5
湯めぐりにまつわる今昔物語 小田原エリア
箱根

江戸時代、関所を設け防衛の要所だった箱根。東海道に沿って湧く温泉は「箱根七湯」と呼ばれるようになりました。

日帰り温泉のはじまりは 江戸時代から?

ボーリング技術や掘削技術のなかった昔、人々は東海道沿い、箱根の谷底に湧きだしてくる温泉に湯治場を作り、箱根湯本・塔之沢・宮ノ下・堂ヶ島・底倉・木賀・芦之湯の七つの温泉は、いつしか「箱根七湯」と呼ばれるようになりました。

温泉の効能は、古くから湯治という形で知られていましたが、その当時の温泉入浴は一廻り(7日間)単位での湯治が中心で、二廻り、三廻りの滞在には多くの費用が必要だったこともあり、将軍や大名などをはじめとした特権階級にのみ許されているものでした。
しかし、江戸中期~後期になると、病気治療から行楽としての短い滞在が主流となり、一夜湯治と呼ばれる一泊二日のスタイルが確率しました。さらに江戸後期、約170年ほど前になると旅の途中で休憩入浴を行った文献も残っています。

一夜湯治は、箱根の入口にあたる塔之沢・箱根湯本を中心に賑わうようになった反面、「旅籠」と呼ばれる一泊宿を提供している小田原宿・箱根宿の間で旅人の奪い合いになり、幕府に訴えるという事件にまでなりました(一夜湯治事件)。

箱根ブランドの浸透は 将軍のお取り寄せ?

ところで、今のようにTVや雑誌、はてまた口コミサイトも存在しなかった江戸時代、江戸っ子たちは箱根温泉をどうやって知ることができたのでしょうか。その一つに将軍家への「献上湯」が挙げられています。
献上湯、それは今の言葉に直すと「将軍・大名による温泉のお取り寄せ」に近いのでしょうか。

徳川家康は熱海から献上湯を運ばせていましたが、三代将軍・家光以降は、湯本・塔之沢・宮ノ下・木賀といった箱根各地からも江戸に運ばれていたようです。
献上湯は毎日2樽分づつ、14日間(二廻り)にかけて運ばれていました。湯宿主が汲み出した湯の入った樽は封印が貼られ、1つの樽につき4人、他に手明きの者が2人ついた状態で、樽の封印が剥がれないよう細心の注意を払いながら箱根の山を下り、小田原の問屋まで運ばれた後、江戸に送り届けられていたようです。

日々、江戸に運ばれる御湯樽を見送る沿道の人々にも箱根ブランドが浸透していったのかもしれません。

江戸時代の箱根土産は 軽くて小さな寄木細工

将軍の献上湯が広告代わりとなり、江戸の商人や農民が大山(伊勢原)や伊勢神宮へ集団参詣に向かうついでに箱根へ滞在するようになったことで、箱根土産の一つ、寄木細工をはじめとした、箱根細工の発展にも一役買うことになります。
様々な樹木を組み合わせ、おのおのの自然の色合いを生かし、市松模様や縞模様などの幾何学模様が描かれた箱根細工は、その美しさだけではなく、「豆人形」や「豆茶器」などの玩具類は小さく軽いものであったため、土産物としての人気が高まったといわれています。

かつて東海道沿道の村に住む農民たちは、農閑期の副業として薪売りや炭焼などを行っていましたが、需要が高まるにつれ、箱根細工作りに移行していったようです。これらの箱根細工は湯宿の売店でも売られていたようですが、商品を担いで、街道沿いの茶屋や湯宿の宿泊客の部屋まで行商という形でも売られることが多かったようです。

さらに江戸末期になると、箱根細工は江戸への行商や、横浜港の開港に伴って、海外への輸出品としても売り込まれていきました。
ちなみに、お正月恒例の「箱根駅伝」にて、箱根町から往路の優勝校に送られるトロフィーは、1997年以降はPRを兼ねて箱根寄木細工でできています。次回の観戦時にはチェックしてみてくださいね。

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