東海道の要衝、小田原城
城下町と小田原宿

小田原は、戦国時代に城下町として、その後は宿場町として栄えました。日本橋から京都へ向かう人々の多くが、初日は程ヶ谷(保土ヶ谷)宿や戸塚宿で休息した後、最初の難関であった箱根山を越える前に二泊目の宿として使用することが多かったようです。
明治時代に鉄道が開通すると、政治家や文化人の別荘地として人気を集め、現在は都心へのアクセスにも優れたベッドタウンとしてさらなる発展を遂げています。
小田原城は、戦国時代、北条早雲が大森藤頼を討ち取り、この地を治めたあと、3代目当主北条氏康の頃には、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた難攻不落の城とも呼ばれていました。丹沢や箱根の山々、酒匂川、早川、相模湾といった自然の要塞に囲まれている地の利にも恵まれていましたが、さらなるポイントとして、城だけではなく、小田原の町全体を巨大な外郭(惣構)で囲ったことで、敷地内に田畑を有し、籠城戦で自給自足を可能にしたことでした。

日本最古の水道は
小田原にあり

小田原城址を過ぎ、東海道を箱根方面に向かい、箱根板橋駅を超え、箱根登山鉄道の鉄橋をくぐり、しばらく進むと左手の景色が開け、早川が広がります。
上板橋交差点の近く、この辺りに、小田原用水(早川上水)の取入口があり、現在でも水門が残されています。
小田原城とその城下町で自給自足を可能にしたのは、作物を育て、人々の喉を潤す水を引き込んでいたことでした。
正確な設置時期こそ不明なものの、北条氏康が16世紀半ばに小田原城下に水を引き入れたことが史料に残されており、これは日本で記録が残っている水道の中では最古のものといわれています。
小田原の地下水は、海のミネラル分を含む塩辛いものであったため飲料に適さず、上水の確保は必要課題であったことが古くからの上水整備の一因と考えられています。

自然の恵みを受けた
小田原の食文化たち

飲料に適さなかった小田原の地下水ですが、かまぼこ作りには欠かせない材料の一つでした。
小田原では、相模湾の沖合、相模灘でたくさんの魚が獲れましたが、冷蔵技術のなかった時代の魚の保存方法の一つとしてかまぼこ作りが盛んでした。
かまぼこを作るには、魚を三枚に下ろし、皮・内臓・骨などを丁寧に取り除いた後に水でさらし、魚の身から油や血を抜きます。この作業には大量の水が必要なうえに、ほどよくミネラルが含んだ水が必要で、小田原の地下水はかまぼこ作りに最適だったのです。

豊かな土地に水、城下町の発展に必要なものとして北条早雲が着目したものは医療でした。
小田原市のシンボルマークは梅の花をモチーフとしており、梅干が名産品となっています。
梅干そのものは古代、中国から漢方薬として伝えられたといわれていますが、北條早雲は、梅干の薬効や食中毒を防ぐ作用に注目し、梅の栽培を奨励しました。小田原の気候や雨量、土壌が梅栽培に適していたことも梅干作りが盛んになった理由の一つかもしれません。
さらに北條早雲は、京の都で朝廷や幕府の人々に重用されていた「透頂香」という薬に目をつけ、この薬を製造していた一族の分家を小田原に招きました。彼らの本家は朝廷で外国使節の接待も担当しており、接待で出していたお菓子が非常に評判がよく、このお菓子の名が彼らの姓でもある「外郎(ういろう)」であり、小田原での外郎の発祥となりました。そのため、小田原の外郎は薬とお菓子の二種類があり、後者を「お菓子のういろう」と呼んでいます。

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