YOKOHAMA再発見
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東アジア最大のチャイナタウン 横浜エリア中華街
「日本三大中華街」の一つであり500店以上の店舗がひしめく街、横浜中華街。その歴史・特徴をお伝えします。
なぜ多くの華僑が定住したのか 中国人来日のきっかけ
開港と共に、横浜には多くの外国人が訪れ、横浜の港では貿易が活発に行われました。ですが、言葉の壁はどのように乗り越えたのでしょう?ここに、中華街を生むきっかけがありました。
当初、互いの言葉が通じない外国人と日本人のコミュニケーション、橋渡しを行ったのが、“買弁”と呼ばれていた、広東や上海出身の華僑の取引仲介人でした。
中国では、横浜開港の約20年前に起こったアヘン戦争の影響で、広東・上海にヨーロッパ各国の商社の支店があり、西洋流の商習慣や言葉に馴染みがあり、さらに、絹や茶など東洋の産品についての知識があったこと、何より漢字を通して日本人と意志の疎通ができるという通訳上の利点がありました。
開港と共に来日した華僑たちは、最初は欧米の商館に住んでいましたが、次第に人数が増え、手狭になってきたこと、開港後しばらくして横浜と上海・香港間の定期船が開設されると、中国人貿易商も来日するようになったことから、一か所に集団で住むようになりました。
これが中華街のはじまりです。
不思議な道の傾きは生い立ちにあり。中華街の誕生と発展
ところで、中華街に足を踏み入れると、急に方向感覚が狂ったり、道に迷ったりしたことはありませんか?
原因の一つに、中華街を通る道は周りの地域と比べて45度ずれていることが挙げられます。
稀に「来日した華僑が風水を重視して中華街を整備し、東西南北に近い形で通りが作られた」という説を目にしますが、これは誤り。
ここは、ペリーが日本を訪れる約50年前は、入江を埋め立てた横浜新田という農地でした。現在の開港道、南門シルクロードは元町と中華街を隔てる堀川に抜ける水路であり、上海路は当時のあぜ道でした。その跡地に移り住んだ華僑が、水路やあぜ道を生かして道づくりを行ったため、中華街は周辺と比べて道が傾くこととなったのです。
こうして生まれた華僑の居住区には、当初中華料理を営む店は少なく、日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半だったのですが、日清戦争、関東大震災、第二次世界大戦による横浜大空襲など、幾度の危機を乗り越え、戦後の復興期に母国中国からの物資に恵まれたこともあり、中華街の飲食店は増えてゆきました。
さらに中華街の活性化を加速させた原因として、1964年の根岸線開通、東京オリンピック開催、1972年の日中国交正常化による、中国ブームが挙げられます。これにより、元町や中華街に観光施設やホテルなどが充実し、多くの人が集まるようになったのです。
ここにも日本の「はじめて」が。中華街トリビアあれこれ
海外と日本の中華街には大きな違いがあります。前者は、日用雑貨や食料品の店舗が中心であり、観光客は訪れるもののその数はごく僅か、あくまで華僑のための街です。後者は、呼び込みや料理店のメニューなどは日本語。非日常的な雰囲気も楽しみながら、日本人をはじめとする観光客がメインです。
中華街に住む華僑の望みは、子孫に街を残すこと。そのためには街がにぎわい、商売が成り立ってゆくことが大事。その思いから、日本の、横浜の中華街は日本人に門戸を広げてきたのです。
話は変わりますが、中華街の下水道の一部は、明治時代のものが未だ現役で活躍しているのをご存知でしょうか?
日本の下水処理は、歴史は古く、平安時代から存在していたものの、開渠式や汲み取り式が主流であり、衛生面に難がありました。しかし、明治時代、急激に人口が増えた外国人居留地にて、コレラの流行を恐れるイギリス人技師の手によって、下水道は地中に埋められました(暗渠式)。これが、日本に近代下水道が整備されたきっかけとなり、そのはじまりはここ、横浜と神戸だったのです。
また、それまで立小便が当たり前だった日本人の風習に異議を唱え、居留地の外国人からの不満・要望を受け、設置されたのが、近代的な常設の公衆トイレのはじまりとなる「路傍便所」です。
今日も中華街は、先人の刻んできた歩みに現在の住民の想いを込め、街の繁栄も含め、未来を見据えた街づくりを行っています。